~ この世・あの世を知るⅡ ~

この世の疑問・謎・疑惑、あの世に関する情報を冷静に分析してみます。

 

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「暴行により作られる食」

 庶民の私は今だかつてフォアグラなる物はそうそう食べることはなかったが、数回だけ付き合いで割と高級な所で食べた事がある。
世界三大珍味の一つと呼ばれるそれを食した感想はと言うと、まぁ旨いと言えば旨い気がするが、正直一口二口の後はしつこいとしか言いようがなかった。キャビアも、・・・筋子の方が旨いな・・・としか思わなかった。
舌が肥えていないと言われればそれまでなのだが、舌が肥えるってどういう意味だ?
というか、そもそもフォアグラはガチョウやアヒルの病気(脂肪肝)の肝臓ということなのだが、どんな物なのか見てみると、やはりこれが旨いの一言で済むはずがない。
これがすべての農場のやり方ではないようだが、無理やり金属パイプで餌を押し込むというのは共通のようだ。
この農場では身動き出来ない状態でカロリー消費せずにひたすら強引に給餌している。
見る見るアヒルの目が死んでいくのが良く分かる。
それもそのはず、自分が同じ事をされたらどう感じるか考えてみれば分かる事。
肩幅いっぱいのゲージに入れられ首だけ出し、一日三回長いパイプを喉に突っ込まれ胃がいっぱいになるまで味わうこともなく餌を押し込まれる。
そして、喉や食道は傷つき炎症を起こしたまま、またパイプを突っ込まれる。
押し込まれる、激痛、出す、押し込まれる、激痛、出す・・・の繰り返しだけの毎日。
歩くことも出来ない。以上に膨れ上がった肝臓のせいで他の内臓が圧迫され、息が止まるほどらしい。
そのストレスは想像を絶する者であろう。
目が死んでいくのも当然。
そしてボロボロになったのち、首をやられて殺される。



fo01.jpg

 この完全病気の肝臓が旨いと感じる方がおかしいと思うのだが。
脂肪が多いだけでなく、精気を失い、ストレスを溜め込んだ物が旨いと思う方もまたアル意味病的であると言ったら言い過ぎだろうか。
結局は通常の命を頂くだけでは物足りなくなった贅沢病になった人間が変わったものを欲しがった結果、無理やり作り出されたものではなかろうか。
物足りなくなった贅沢者の為にこんな苦痛を与えられる動物たちは浮かばれないであろう。
命を頂くだけではダメなのだろうか。



 これはドイツの豚の屠殺(とさつ)とその活用の映像。
残酷なようであるが、これがこの世の生物のありのままの姿。
我々もこうして生かされているのだが、上のフォアグラとはまったくもって別物である。
この家庭では、年四回の豚の屠殺と処理をするが、ほとんど捨てるところはなく、膀胱や顔の肉から血まで使ってソーセージなどにする。
これが自然に対する感謝であり、生かされる生物のあるべき姿ではないか。
人が、変わったもの、珍しいもの、人が持てないものを欲しがるようになった時、それは「感謝」を忘れた時である気がしてならない。
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「宇宙の果て・・・」


 人類にとって究極の謎、宇宙の大きさ・宇宙の果て。
様々な視点から多くの研究者が見解や回答を出しているが、真実はどうなのであろうか。
今も変わらず重要視されているのは、宇宙はビッグバンから始まり今も広がり続けているという考えだろうか。
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 宇宙を知りたいというのは、現代に限らず知恵を持つ生き物としては当然の関心事であり、追い続けていくのが宿命と思う。
ただ、私の素人考えだと科学の視点自体がこの世を間違ってとらえていると思う。
まず、第一からして宇宙というものはややこしい物質の塊ではなく、この世や多次元の合成された単なる「空(くう)」であり、大きさや広さなんてもの自体が無意味なものであると考える。
その”空”に存在する物質(実際は存在自体が実体ではなくこの世の法則の結果をとらえているに過ぎない)を他の物質と比較して対応する為に目盛りというものを使って区切っているに過ぎない。
大きさというのはこちらの都合の為に考えた「区切り」に過ぎない。
物質そのものの大きさなどはそのものにとっては無意味であり、重さなどというのも法則によって影響を受けた結果に過ぎない。
それを人間が数値化しているだけだ。

 たとえば、ここに宇宙がある。
この宇宙の言うのは、空(くう)の状態。
そこにある物質等は除外して、単なる場である。
よって、宇宙の法則のみ存在し物質は存在していない状態。
space00.png

 ここに立方体を設定する。
そこに樹脂を流し込んで模様をつける。
space01.gif


 宇宙にサイコロが誕生した。
それは手に乗る大きさだと認識できる。
定規で測ると宇宙におけるサイコロの大きさという目安が出来た。
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 ここでしたことは、宇宙の中に区切りをつけて物質を充填しただけだ。
宇宙には何の影響も与えていないし与えられない。
変わりない宇宙の中に区切りをつけ元々存在した物を合成した樹脂をここへ移動しただけだ。
物体・大きさというのは、宇宙に起こった「区切れ」だけである。
それによって空間が増える訳でも減る訳でもない。
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 もう一度言うと、
宇宙には何の影響もしないし、宇宙の大きさとこのサイコロの大きさには何の関連性もない。
宇宙の中で単に起こった事象である。
星であろうが原子であろうが、この宇宙の中で起こった事象の一つに過ぎない。
大きさというのは、その事象を人間が独自の目安で測ったという事実の一つに過ぎない。
宇宙自体には何の関係もない。

 これは、宇宙が広がり続けているという根拠になる星の遠ざかって行く様子。
だが、これも星が移動し続けているというただの事象であり、遠ざかっているというのも、今と前の場所を区切ったことによる目安に過ぎない。宇宙自体の大きさとは何の関係もない。
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 宇宙という空間と物質の「癒着」の証拠はどこにもない。
宇宙の中の物体がどうなろうと宇宙自体には影響を及ぼすことなどない。
よって、宇宙の中での事象を使って宇宙自体に大きさというものを結びつけること自体が無意味なことだ。
大きさというものは、空間内における「見た目の区切れ」であり、大きさ自体は存在しない。
空間とは何の関係もない。
人間がどんな手を使って区切ろうとも、結局は見た目の区切れでしかない。
なので、宇宙の何も測れていない。
中で起こる事象の何を測ろうとも、目視出来る区切れを確認する事しか出来ない。
電波が届くとか届かないとか、光が曲がるだの消えるだの、そんなことは法則における事象の一つ。
宇宙の大きさとは何の関係もない。
なのに、なぜか人間は宇宙空間を、暗闇とその中身の融合物として考えている。
宇宙は法則の上に成り立っているただの”空”。
果てがあるとか無いとか歪んでるとかの問題ではなく、大きさを考える事自体が的外れだと思われる。
知るべきは”空”とは何か、宇宙(神)の法則とは何かだ。
それがフリーエネルギーや反重力に繋がっていく。
科学者がそれを考え直さない事には根本的な進化は起こらないと思う。

 すみません・・・
正直、うまく説明出来ていない・・・
何度も読み返して頂いて、真意をくみ取って頂ければと思います。

「冬は家でおでん・・・」

 ずいぶんと寒くなり、肉まん・おでんの季節がやってきた。
以前は「コンビニのおでんって馬鹿に出来ないよな。」と言って夜な夜な買いに行ったものだ。
当時は添加物・化学調味料たっぷりのものを喜んで食べていたので、コンビニおでんも旨いものだと思っていた。

 でも、おでんはスーパーによくあるネタや大根を安く仕入れて工場で煮込んだものを店舗で温めているだけじゃないのか?
店で見ていても、真空パックから出しておでん鍋に入れているだけ。
温め続けるのだから保存料だってさほど必要なさそうだが・・・
と思ったのは甘かったようだ。

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 私自身はコンビニおでんはもう10年は買ったことはなく、家で作るのが常だ。
良く考えてみれば、おでんは数時間も煮込んでしまったら色も変わり煮崩れしてしまう。
だし汁もだんだんと濁っていく。
それはそれで悪くはないと思うのだが、コンビニで見るおでんはいつ見ても同じ色、同じ形、透き通っただし汁、そして・・・
下の記事を見て「そう言えばそうだな。。」と気づいた。
煮込み過ぎてだしを吸い沈んでいるものはない。

8時間以上煮崩れせず、浮いていなければならないという条件があるのだという。


************* 阿修羅掲示板より *************

 6~7年前のことです。焼きチクワやハンペンなどをつくる三陸海岸のある老舗の練り製品メーカー社長に、こんな話を聞きました。

 その練り製品メーカーは、大手コンビニチェーンとおでんの練り製品を納入する仮契約を結びました。仮契約には「仕様」という品質についてのさまざまな取り決めがあり、それらをすべてクリアできて本契約となります。当然、練り製品メーカーでは、仕様に沿った製品づくりを始めました。しかし、どうしてもクリアできなかったのが、「練り製品はおでんのダシ汁の中で8時間浮いていること」という仕様でした。

 チクワ、ハンペンなどおでんの具になる練り製品は、通常、スケトウダラなどの魚肉のすり身に食塩、砂糖、でん粉、調味料などを入れて練り合わせてつくります。しかし、通常のつくり方では、どうやっても、汁の中で8時間浮いていられません。具材が汁を吸って型崩れを起こしてしまうのです。

 そこで社長は恥を忍んで知り合いの同業者に相談したところ、その人はこともなげにこう言ったのです。

「簡単なことだよ。原料のすり身にリン酸塩とソルビットをたくさん使えばいい。そうすれば、すり身の比率は下がり、おでんの汁も吸いこみにくくなる。使った添加物はキャリーオーバーということにしておけば表示の必要はないから、コンビニチェーンにも消費者にもわからないよ」

 大半のすり身は船上でつくられます。その際、品質保持や増量のためにリン酸塩やソルビットが添加されますが、使用した食品には影響が出ないということで添加物の表示は免除されます。これをキャリーオーバーといいますが、この制度をもっと利用しろというわけです。

 社長は、そこまで品質を落とすことはできないとして、コンビニチェーンとの仮契約を破棄しました。それによって会社がコンビニチェーンに対して支払った違約金は100万円を超えたそうです。

************* 転載終了 ***********

 ここまでしてキレイな見た目をおでんに求める必要があるだろうか。
スーパーの野菜もそう。見た目が統一してあり、その実態は最低限の三種の化学肥料を与えておけば根と葉と茎になるという考え方。

 食品添加物について、”危険だというデータはない”、”危険というのは嘘”・・・というサイトや専門家もいるが、メーカー側が危険性を自ら暴露するようなデータを出すはずもなく、科学者・専門家も人体実験を出来るはずもない。
マウス実験や科学的根拠から導き出す以外に方法はない。
その上で危険である可能性があるのならば黙っていてはいけないと考える方が当然。
少しでも可能性があるなら自粛するのが人の道ではなかろうか?

 「危険は嘘」という人に問いたい。
ならば、添加物入りの食品ではなくて、ここに自然のままの食材とこれから投入される薬品をスプーンに載せて交互に口に入れて毎日食事を出来るか?と。

「リン酸塩製剤」
完全に化学薬品である。
危険・危険じゃない、の前に、なぜ化学薬品を口に入れなければならないのか。
ただ、これは企業側だけの問題ではない。
むしろそんなものを必要としてきた国民にも大きな問題がある。
「安く」「安く」「安く」「面倒くさい」「いつでも食べたい」がこんなものを産みだしてしまった。
本来なら国が規制すべきところを、逆に企業側につき後押ししてきた結果がこんな社会だ。
国民が目を覚まさないと癌やその他慢性疾患は増え続けるだろう。

幸い中国ほどのイカれた偽物は出回っていないだろうが、でも、人の健康を軽視していることに違いはない。
中国の考え方、「捕まらなければ、逃げ切れれば、人がどうなっても良い」
日本の考え方、「ただちに影響が出なければ、証拠が出なければ良い」
その差は僅差。
馬鹿さ加減では中国が上。
卑怯さでは日本が上である。

「この世・あの世・人生とは・・・」

 この世とは、あの世から修行に来る場所である。
・・・という話をよく聞く。

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確かにそういう言い方も出来るだろう。実際にこの世など修行としか思えない事の連続だ・・・
しかしながら、これはまったくもって私の勝手な見解だが、ちょっとイメージが違う。

 この話は証明も出来なければ、自分でも確かな記憶なのか、この世の現実に歪められた記憶なのか、全くの幻想なのか、確信が持てない事なので、信じて欲しいとは言わない。
ただ、私の中では多少この世に合わせたデフォルメが混在するものの「大事な記憶」であることは間違いない。
記憶というのは、端的に言うと”この世に生まれてくる前のあちら(あの世?)での記憶”。
それはいつの頃からか、おそらく二十歳を超えてから、蘇った記憶である。

 それは、この世に生まれてこようとしている自分の意志から始まる。
経験者・霊能者・研究者の中では諸説あるが、やはりあの世(あの世も何段階もあるだろうが)は苦しみのない平和過ぎてしまうところであったと思う。それは悪いことではないが、魂が進化を求める以上、何事もないというのは逆に窮屈なのであろう。
よく言われることだが、自由に思った通りに移動出来、思った体験が出来る世界のようだ。
私は何人か(この何人という認識自体はこの世に合わせた感覚であり、実際は個人というものは無いのかも知れない。)の友人?的な存在(この世で言う友人よりも深い感覚。兄弟と友人の間のような関係だろうか。)と一緒にいたようだ。漠然とした感じでこちらへ来る(この場合向こうへ行く)話をしている。
どうやらそれを決めているのは自分よりもずっと上の存在がいて(なんとなく高貴な先生といった感じ。もちろん学校の先生とはレベルが違う。一番上の神とはまた違う、もう少しこちら寄りの存在。)そこで決められているらしく、私はどうしようか悩んでいる。

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 そんな中、私は決心しこちらへ生まれてくる事を希望した。おそらく前世はそれほど前ではなかったように思う。
前世の記憶は全く無いが、早目の生まれ変わりであるようなイメージが残っている。
そして、この世へ生まれて来る許可が下りた。(この許可というのもこの世での感覚に合わせているのかも知れないが)
それを受けて少し複雑な心境に困惑している私に、その友人?が「本当に行くんだ?」というようなことを言っている。
その時点では私は向こうへ行って「ここでは味わえない面倒な体験をして来るんだ!」という強い意志と、どこかに不安を抱えた部分が共存している。

 そして、ここで生まれて行く条件のようなものを決めていく。
おそらくまだ勢いが勝ってしまい欲をかいた私は、「いっそ障害を持った人生を体験したい」と希望した。
しかしながら、その上の存在から「まだあなたには厳しすぎるからそこまでのリスクは与えない。」と言われる。(この上の存在とは間接的にしかコミュニケーションがとれないようだ)
しかし勢いづいた私は「大丈夫、大丈夫。」と不安混じりながら強気な対応。
何度かやり取りがあって、結局、無難よりはまあまあのリスクを背負って生まれていくことになった。
確か・・・この後生んでくれる親を決めた気がする。

そして、行く時が来たのだが、自分ですべて希望しておきながらイザとなったら怖気づいたのは覚えている。
一魂にそんな権限があるのか分からないが、一度出発の時を延期してもらったと思う。
その時の気持ちとしては、大変な世界に行くのに怖気づいたのではなく、あの世からの一番の変化は「孤独」になるからだ。
おそらくこの辺りから、仲間たちと離れるようになってくる。
「本当に行くんだ?」というようなことを問いかけられ、徐々に自分の周りから気配が無くなっていくようだ。
孤独な存在になる準備なのかも知れない。

 家族もいるしたくさんの人、生き物がいるではないかと思うが、そういう物理的な孤独ではなくて、魂が他の魂との繋がりが外れて一つの人格として体に格納されてしまう事への孤独感だ。
そして今の記憶・感覚をなくしてしまう不安。
あちらでは個々の人格はあるものの、孤独というものは無いような感覚がある。
確かいつも同期しているような仲間?がいた。それはそう多くないグループくらいの集まりだったと思う。
もちろんそれしかいない訳ではなく、一体感のある仲間は数としては多くはなかったと思う。
そう言えば、以前の記事で紹介した”宇宙人ユミットからの手紙”にこうあった。
地獄というものは、あの世へ行った時にこの世での行いによって孤立してしまい魂の集合に入って行けない状態の事だと。
孤立こそが地獄、なるほど理解できる。

 そんな不安に駆られて出発を一度逃し、次のタイミングで私はまたしても「ちょっと待って・・・」と再度躊躇してしまった
しかし、「もう駄目です。決定です。」とこちらへ半ば強制的に送られた。
生まれる時は一気に送り出される感じ。
・・・・ここまでが出生前の記憶である。
ここで、もうひとつ、どのタイミングの会話かは分からないが、こんな記憶がある。
(これはもしかしたら以前記事に書いたかも知れない)

 あちらに母親というものが存在するのか分からないが、自分の母親的な存在と話している光景。
仮に母として会話を再現すると、
母:「向こうの世界は大変だよ、頑張らないと。」
私:「じゃあ、さっさと終わらせて帰って来よう。」
母:「でも向こうへ行ったら行ったでまだここに居たいと思うもんなんだよ。」
私:「だって大変なんだったら早く帰りたくなるはずでしょ。」
母:「お前も行ってみれば分かるよ。疲れた、もう嫌だ、って言いながら、もうすぐ帰るという状況になったら、やっぱりまだここに居たいって思うもんなんだよ。」
私:「おかしな話だね・・・」

ここで何かを約束したような気がするのだが・・・思い出せない・・・・
何かを「絶対忘れない!」と、決意していたような気がするのだが・・・

 そんな感じで私はこの世へ生を受けたと思っている。
もう一度言うが、この話は戯言と思われても仕方ないし、私も正直確信を持てるものではない。
ただ、抽象的な事実だけではなく、その時の感情というものまで残っているので、こちらへ来ることによっての変化に伴って無意識にデフォルメしてしまっている部分があるにせよ、このような仕組みの中で我々は生まれて来るという事に間違いはないと信じている。
 
 よって、よく思春期の子が、「誰が産んでくれって言った!」なんて定番の反抗の仕方があるが、「いやいや、あなたが決めて自分から来たんでしょ。」という事になる。
また、「なんで自分ばっかりこんな苦労をするんだ!」という定番の怒りがあるが、「いやいや、自分で設定したんでしょ。」という事になる。
そして、ここが大事だと思うのだが、私の例をとってみても、「神は乗り越えられる試練しか与えない。」というのは間違いないと思う。乗り越えられない試練は生まれる前に却下されるのだ。
冒頭の”この世とは、あの世から修行に来る場所である。”は少し違うと思う。
むしろ、退屈なマンネリ平和ボケの世界から、刺激や感動を求めてむしろ楽しみに来ていると言っていいと思う。
それが思いのほか大変なので、「疲れた~、もう嫌だ~・・」と、楽しむことを忘れているだけなのだ。
人生は、修行僧が苦痛を伴う荒行をして悟りを開く・・というような、そんな修行ではなく、予想外に難解なゲームのボスキャラとの対戦・・・のような感覚で良いのではないだろうか。
乗り切れば次のステージ。

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 とは言え、「そうは言っても、やっぱり割り切れないぞ、辛いものは辛いんだよ。。」と人間は思う。
大きな壁にぶち当たると客観的に見れなくなり、どんどん内にこもってしまう。
それで良いのだと思う。
その割り切れなさこそが試練であり、困難も飄々となんなくこなしてしまっては試練の意味がない。
人の苦しみを感じ、あらゆることに感動を覚えることで魂が進化していくのだろうから。
ただ、行き詰った時に、どん底へ落ちるのではなく、こんな事を思い起こして立ち直ることが出来れば理想的な人生ではないかなと思う。
再び向こうへ戻るその日まで。

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こんな景色を向こうで見たことがある気がする。
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